島原城について

島原城

島原の新しい領主となった松倉豊後守重政は、戦国大名の意気込みを持って乗り込み、大規模な築城事業を始めました。
寛永元年(1624)頃に島原城が完成しました。
前領主・有馬直純が延岡(宮崎県)へ転封し、その後、松倉重政が五条(奈良県)から入国しました。
この時、領国統治の根拠地として、新しい居城を島原に築きました。
重政は築城と同時に、島原城下町も整備しています。
城外郭は東西350メートル、南北1200メートルあって、周囲に3800メートルの塀を巡らしていました。
内郭は15メートルの深い堀と石垣に囲まれ、南に片寄って本丸(160×200メートル)が、その北隣に二の丸(120×120メートル)、さらに三の丸(150×300メートル)がありました。
本丸には五層の天守閣が高さ32メートルとそびえ立ち、三層櫓3ヵ所、二層櫓7ヵ所が配置されていました。
三の丸には御殿が置かれ、藩主の屋敷と藩庁がありました。
上級武士屋敷街が城内に、下級武士屋敷街が城外西側に配置されています。

唯一残るのが「御馬見所」です。三の丸御殿にあって、お殿様が藩士の馬術訓練などを見物された建物です。現在、島原城内に移築、復元して、お茶会などに利用されています。
さらに、城の東と南側には城下町を開くなど、四万石の大名にしては過分の城構えです。
この島原城も明治9年(1876)までにすべて解体され、石垣と塀しかない裸の城となっていました。
しかし、その後「島原にはお城が必要だ」という、島原市民の熱意によって、昭和39年(1964)に復元されました。
それ以来、島原市民の誇りとして、また観光・島原のシンボルとして、多くの人々に親しまれています。
平成18年には、(財)日本城郭協会から日本を代表する歴史的名城として、「日本百名城」に認定されています。

大手門跡・北門跡

城の南部に大手門跡が残っています。大手門とは城の正門で、門前は島原一の広場でした。

築城当時から「市」が開かれていました。それが「初市」で、非常に賑わっていました。また、北側には、搦手門である北門(諫早門)がありました。今では地名として残っているだけです。

 

御馬見所

唯一残るのが「御馬見所」です。三の丸御殿にあって、お殿様が藩士の馬術訓練などを見物された建物です。現在、島原城内に移築、復元して、お茶会などに利用されています。

 
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